第27話 「終わらない悪夢」

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メイは暫しの間、呆然とメルセルの姿を眺めた。
安堵以上に、信じられないという思いのほうが強かった。
どうして彼がここにいるのだろうか。
まさか自分を助けに?

「ますたー、もしかして…」
「何か証拠になるものは見つけられたんだろうな?」

期待を込めて見つめるメイに、メルセルはいつもと変わらぬ調子で言い放った。
あっさりと期待を挫かれたメイだが、不意に笑い声を上げたい衝動に駆られた。
自分に向けられた不機嫌そうな面持ちや冷淡な物言いに、不思議と心地良さを覚える。

「はい、持ってます」
「は…随分と時間がかかったな」

 

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それだけ言い捨てると、メルセルは抜き身の剣を手にしたまま残る2体の獣へと向き直る。
メイは我へと返って叫んだ。

「ますたー、駄目ですよ!逃げてください!そいつらがますたーの言ってたウェアスキーヴァーって奴でしょ!?」

この獣の危険性を説いたのは他ならぬメルセルだ。
メルセルが剣の使い手であることはメイも聞いたことがあるが、それでも彼はあくまで盗賊であって戦士や傭兵ではない。
メルセルの盗賊としての腕は疑いようがないが、しかし武器を持って戦うのは盗賊の領域ではない。
盗賊がこの獣に、しかも2体を同時に相手取るのはあまりにも無謀すぎる。
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「ますたーに何かあったらギルドは立ち行かなくなっちゃうんですよ!」

メイの懸念などお構いなしに、獣の一体が鬨の声を上げて突進してきた。
メイは思わず目を瞑った。
しかし、次の瞬間、甲高い悲鳴を上げたのはウェアスキーヴァーのほうだ。

(え…!?)

 

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メルセルに飛び掛かったウェアスキーヴァーの爪が届くよりも早く、剣がその胴を薙いでいた。
切り伏せられた獣は、身体の痙攣させながら崩れ落ちる。まだ辛うじて息はあるものの、しかしその命は風前の灯火だ。

メイには事態が理解出来なかったが、獣の勢いを利用して回復が追い付かないほどの致命傷を一撃で負わせたのだ。
そこに至るまでほんの一瞬の出来事で、メイは何が起きたのかわからないままただ呆然とするばかりだ。
呆気に取られるメイを余所に戦いが始まる。

目の前にいるのが獲物などではなく強敵だと悟ったウェアスキーヴァーは、メルセルとの距離を保ちながら相手の隙を伺う。
先に動いたのは獣のほうだった。
その腕は尋常でないほどに長く、その先端から伸びた爪も含めると相当な幅がある。メルセルの剣が届かぬ位置を保ちながら、恐ろしい俊敏な動きで腕を振るった。
メルセルの背後には壁が迫っており、おそらく退路はないに等しいと考えたのだろう。
それはメイも同感で、思わず何事か叫んだ。

 

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獣の爪が触れようとしたその瞬間、メルセルが僅かに動いた。
それはさり気ない動作に見えたが、獣の爪を刃渡りの短いダガーで受け止めた。

メイにはあんな小さな刃で受け止めるのは無謀に思えたが、正確には真っ正面から受け止めるのではなく、受け流すことで爪による攻撃を逸らした。それにより、獣の爪が折れて飛んだ。
痛みと怒りに咆哮を上げる獣に、メルセルは身を低くして一気に距離を詰め、右手に持った剣で斬り付けた。
勢いを殺さぬまま、身体を捻って今度はダガーのほうで斬り付け、左右の手にそれぞれ持った長さの違う刃で確実に獣を追い詰めていく。
ウェアスキーヴァーが持つ高い再生能力も、メルセルの斬撃の前には追い付かない。

メルセルの流れるような動きに、メイは全てを忘れて見入っていた。
強靱な腕力をと並外れた俊敏性を持つ獣を相手にしながら、予め全てを計算していたかのように適切に立ち回る。

(強い…!)
メイには武芸のことなどわからないが、メルセルが並ならぬ技量の持ち主だということは理解出来た。

 

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時間にすればほんの僅かな間の出来事だったのだろう。
周囲には事切れた3体の獣が転がり、傷口から流れ出た鮮血が赤い水溜まりを作る。

鉄錆にも似た臭気の中、メイはその場に力なくへたり込む。緊張の糸が切れて、身体を支える力を失ってしまったかのようだ。

 

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(あたし、助かったの…?)

小さな金属音が聞こえて、メイは顔を上げた。

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まだ生命の危機を脱したという実感が沸かないメイとは対照的に、メルセルは小うるさい蠅を潰しただけだとでも言うように、剣を鞘に戻してこちらを見下ろしている。
普段と変わらない、人を見下したような面持ちだ。

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にも関わらず、メイは知らずに内にへらりと笑みを浮かべていた。
メルセルが舌打ちした。

「ふん…随分元気そうだな」

それだけ言うと、身振りで「来い」と示して歩き出す。
メイは慌てて立ち上がる…いや、立ち上がろうとした。
しかしどうしても脚に力が入らない。

 

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いや、脚だけではなく全身が酷く重いと感じる。
自分の中の魔力を操るというのは、かなり精神力を消耗する。
ましてや、3日間分の心身への負担が溜まった状態なら尚のことだ。
それに、生命の危機に晒されたことへのショックも大きい。
何とか立ち上がろうとしても、身体が全く言うことを聞いてくれない。
狼狽えるメイに、引き返してきたメルセルの影が掛かる。

「あ…あたし、その…」
再び舌打ちが聞こえた。メイは顔を伏せて相手の表情を見ないように努めているが、おそらくゴミでも見るような目を向けられているのだろうと感じる。
不意に身体が浮かび上がった。

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(え?)

気付けば小荷物よろしく抱え上げられていた。
その状況に気付いたメイは、身を捩って逃れようとした。

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「や…やめてください!下ろしてください!」

こんな汚れた身体に触れられるのはどうしても我慢ならなかった。
しかしメルセルは、大して意味のない悪あがきをあっさりと押さえ付けると、メイの意向などお構いなしに歩き出す。

「黙っていろ。これ以上手間をかけさせるな」
そう言われては反論のしようがなく、口を噤んだ。

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メルセルに運ばれながら、暫くは緊張で身を固くしていたが、生命の危機を脱した実感を覚えると同時に疲労感が襲ってきた。
メイの意思とは裏腹に、瞼が鉛のように重くて目を開けていられない。

 

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(あったかい)

メルセルに運ばれながらそんな考えが脳裏を過ぎった。
革製の鎧越しにそう感じたのは錯覚だったか否か、確かめるより先にメイの意識は深い淵へと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「う…ん…?」

次にメイが目を覚ました時、まずは見覚えのある天井が視界に入って来た。
ややあって、自分が寝台に横たわっていることに気付く。
そのまま暫く、寝台に横たわって天井を眺める。
ここは自分の部屋で、自分の寝台の上にいることを理解するまで暫しの時間を要した。

 

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「小娘、起きたか?」

誰かが椅子から立ち上がる気配があった。
顔だけを僅かにそちらに向けると、安堵の表情を浮かべたブリニョルフと目が合った。
どうやら今まで意識のないメイの側に付いていてくれたようだ。

「ますたーは…?」

状況も何もわからないまま、メイは開口一番そう言った。
そう聞いた瞬間、ブリニョルフの顔に苦々しい表情が浮かぶ。

「メルセル、あいつは…いや、何でもない。
それより小娘、何か欲しいものはないか?
丸一日以上眠っていたんだ、腹も減っただろう?」

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「いちにち…」

そう聞いても、一瞬理解出来なかった。
彼の言葉を反芻すると同時に、これまでの記憶が一気に蘇り、勢い良く半身を起こした。

「そうだ!手紙!手紙が!」

慌てて自分の衣服を探る。
いつのまにか身体は清められ、傷の手当てを施した状態で、新しい服を身に着けている。

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「落ち着け、小娘。
心配するな、お前は立派にやり遂げたよ。
お前の荷物の中に、アリンゴスが農園を売却した証明書を見つけた」
「え…?」

メイは戸惑いを覚えてブリニョルフを見上げる。
自分はあの時、手紙を無造作に持ち帰るのがやっとで、荷物など持っていなかった筈だ。
しかしブリニョルフはメイが自分に向ける表情を別のものと捉えたらしく、目を細めて笑った。

「全く、無茶をしやがって。
しかしまぁ、お前はこの任務を成し遂げたんだ。
お前があの農園の蜂の巣を燃やした日は、運良く風のない晴れ渡った夜だった。
リフテンさえも丸焦げにしそうなほど、あの炎はよく燃え盛っていたよ。
早くもギルドの仕業だろうって噂が立って、どいつもこいつもビビってやがる。
俺はお前を誇りに思うよ」
「…あたし、どうやって帰って来たの?」
「カジートキャラバンが、リフテン近くで倒れているお前を偶然にも見つけて保護してくれたんだ。
カルジョ、とか言ったか?お前の友達は。
あいつがお前を運んで来てくれたらしい」
「カルジョ…」
「ああ。今度会ったら礼を言っておけよ。
おそらくお前は一休みしようと街道の端に腰を下ろしたんだろうが、そのまま疲れて眠ってしまったというところか?
早い段階で、通り掛かったキャラバンがお前を見つけてくれて良かったよ。
下手したらあのまま凍死していたということも十分にありえるんだからな」

 

 

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「ち……」

違う。
メイはそう口にしかけた。

運良くカジートキャラバンがメイを見つけてくれたのではない。
そうなるよう、メルセルがお膳立てしたのだ。彼はキャラバンの巡回ルートもリフテンに戻ってくる日時も把握していた筈だ。
彼がどうしてそんなことをしたのか、そもそも何を思ってわざわざ自分を救出するために現れたのか、メイには全くわからない。
しかしメルセルのことだから何か考えがあるのだろうと思い、この件については口を噤んだ。

「ブリニョルフ、ますたーはどこにいるの?」
「メルセルならお前が持ち帰った手紙のことで忙しなく動き回っている。用があるならまた別の時にでも…」

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「いや、それには及ばん」

メイとブリニョルフは同時に顔を上げた。
いつのまにか部屋の入り口にメルセルが立っていた。
ブリニョルフは頃合いを見計らったかのように現れたメルセルに驚いた顔を見せたが、メイのほうはさほど意外に思わなかった。

「やっと目を覚ましたか」
「…はい」
「メルセル、こいつはまだ報告出来るような状態じゃない。
今は少し休ませてやるべきだ」
ブリニョルフはメイを庇うように言ったが、他でもないメイ本人が首を横に振る。
寝台の上で上半身だけを起こした状態で、メルセルに向き直る。
「あたし、ちゃんと報告出来ます」
「小娘、しかしだな…」
「ブリニョルフ、こいつが出来ると言っているんだ」

ブリニョルフはまだ何か言いたそうだったが、結局引き下がることにした。
それでも彼はメイに気遣わしげな目を向けており、メイには彼が何故そんな目をするのか理解出来なかった。
ヴェックスと違って怪我らしい怪我もしていないのに。

 

 

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「あたしが持ち帰った手紙に買いてある通り、アリンゴスは農園を誰かに売ったみたいです」
「らしいな。
それで、お前はアリンゴスから何か聞き出せたのか?」
「アリンゴスは…そいつのことを『影』って呼んでました。
確か、影はどこからでも射すとか…目に見えない恐怖には慣れないとか、そんなこと言ってました。
その『影』のことをよっぽど恐れてたらしくて、部屋中の窓に板を打ち付けて自分の部屋に閉じ籠もってました」
「で、そいつについての詳細…名前はもちろん、身体的な特徴やアリンゴスとの関係性、男か女かなどは聞き出せなかったんだな?」
「う…はい。
っていうか、多分そいつ、かなり用心深い奴だと思います。
その、アリンゴスもはっきりと知らないみたいな感じで」
「用心深くて当然だ。
でなければ、ただの無謀な馬鹿ということになるだろうが。
何しろ、間接的にとは言えそいつのやったことはギルドに対する宣戦布告も同然だ」
「そ、そうですよね。
アリンゴスはそいつに相当脅されたっていうか、自分の意思でギルドを裏切ったわけじゃないっぽかったです。
アリンゴスは、どっちかって言うとあんまり悪くないんじゃないかなーって思います」
「随分とアリンゴスを庇うな。
…それで、奴はどうなった?」

そう問われて、メイはアリンゴスの最期を思い出した。
あまりにも色々なことが起こりすぎて、今の今まで忘れていた。

「アリンゴスは…死にました。
その、彼が飲んだお酒がたまたま毒入りだったっていうか…何か取ってて言われてあたしが取ったんですけど、あ、もちろんあたしはそんなこと知りませんでした。
適当に棚から選んだお酒を渡したら、何か毒入りだったみたいで」
「なるほどな…予想はしていたが、やはりアリンゴスは死んだか。
それで、お前はアリンゴスの最期を間近で見届けたんだな?」
「はい」
「その棚の酒をアリンゴスがいつ飲むかもわからなければ、飲む前に異変に気付いて警戒した可能性もある。
仮にアリンゴスを殺害するのが目的だとしたら、随分と効率の悪いやり方だ。
お前はこれをどう見る?」
「ふぇっ!?
えーっと…
アリンゴスは自殺だったってことですかね?
あたしには、ちょっと…わかりません」

 

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「お前は人の話を聞いていなかったのか?」

メルセルの声が低くなる。
思わずメイは身を竦めた。

「俺はお前にどう見るかと聞いているんだ。
お前が正しい答えを知っていることなど期待するか」
「う…は、はい。そう、ですよね。
あたしは、その…」

メイは口籠もりながら、アリンゴスの最期の様子を思い出す。
彼が今際に見せたあの顔は、今も有り有りと脳裏に思い浮かべることが出来る。

「…あたし、アリンゴスは自殺じゃないと思います。
やっぱり、例の『影』に殺されたんじゃないです?
アリンゴスは死ぬことを怖がってたし、『影』に協力することになったのも多分死にたくなかったからみたいだし…
『影』がなんでそんな回りくどいことをしたかまではわかんないですけど。
あ…何となく、ですけど。運を天に任せる、みたいな感じだったのかもしれませんね?
何が何でもアリンゴスを殺したいわけじゃないけど、回りくどい細工をして、もし死んだならそれもまた運命…みたいな…
迷信深い奴だったりしませんかね?」

メイ自身、後半になるほど馬鹿げたことを言っているなと思った。
恐る恐るメルセルの様子を伺う。
てっきり呆れ返っているに違いないと思ったが、メイの予想とは異なる反応を見せた。

 

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「…なるほどな」

そう言ったきり、メルセルは黙り込んだ。
正確には、何事か思案しているようだ。
メイは暫くその様子を静観していたが、我慢出来なくなって口を開いた。

 

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「ますたーは何か心当たりがあるんじゃないです?
前にブリニョルフと話してるのを聞いた時にも、そんな気がしたんですけど」
「あったとしても、現時点で迂闊なことを口にすれば却って混乱を招く。考えを聞かせる相手は慎重に選ぶ」
「っ…そー、ですか」

自分がその範疇から外れていることを暗に告げられ、メイは項垂れた。
メルセルはこれで話は終わったとばかりに背を向けて歩き出す。

 

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そんな彼に、今まで黙っていたブリニョルフが声をかける。

「待て、メルセル。
こいつに何か言ってやることはないのか?」
「いいよ、ブリニョルフ」
メルセルは足を止めて肩越しに振り返ったが、メイは首を横に振った。
面倒臭そうに舌打ちし、今度こそその場を歩き去るメルセルを見送る。
「小娘…」
「別に構わないから」

腑に落ちないという顔をするブリニョルフに、小さく頷く。
彼はメルセルがメイに労いの言葉の1つもかけるべきだと考えたのだろう。
しかしメイは、自分が今ここにいるのはメルセルの助力あってのことだと知っている。
だから労いの言葉など必要ない。

 

 

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メルセルが出て行った後、ブリニョルフもまた「小娘、少し待っていろ」と言って部屋を後にした。
食事を用意してくれるらしい。
1人きりになったメイは、そのままぼんやりと過ごす。

(あたし、やり遂げたんだ)

自分1人の力で、というわけではないが任務を終えたことは確かだ。
しかも大した怪我をすることもなく、無事に帰って来た。
その過程で様々なことがあった気がするが、しかし全てはもう終わったことだ。
自分は今、無事に任務を終えて安全な場所にいる。だから、過ぎ去ったことなどもう関わりのないことだ。
メイはそう思った。

…そう思い込もうとした。

 

 

 

 

 

長時間眠っていたせいか、身体に力が入りにくい。覚束ない足取りで、メイはベッドから出てフラゴンへとやって来た。
ブリニョルフに空腹について指摘されてのことだが、正直なところメイにはあまりその自覚はなかった。
ブリニョルフはベッドまで食事を運んで来ると言ったのだが、メイとしてはそこまでして貰う覚えもなく、彼の申し出を断った。
先ほどからブリニョルフがやけに気遣わしげな態度を取っていることが、メイにはどうにも引っ掛かった。

「ああ、目を覚ましたんだね」

ブリニョルフと共に姿を現したメイに気付いたデルビンが、柔らかな笑みを向けてくる。
しかし、ブリニョルフ同様にどこかぎこちなさが漂っている。
それが何なのかわからないまま、メイはブリニョルフに促されて席に腰を下ろす。
テーブルの上には調理したばかりの食事が並べられている。

 

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ホンリッヒ湖で獲れた魚介類のクラムチャウダーと鮭のソテー、バターたっぷりのパイ、油で揚げたじゃがいも。それもメイの好物ばかりだ。
しかし、湯気の立つ料理を目前にしても食欲は全く沸かない。

(あれ…?)
そんな自分に疑問を持ちながら、しかしブリニョルフの好意を無碍にするのも気が引けて、クラムチャウダーを一口啜った。

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まずメイが感じたのは、ざらりとした嫌な舌触り。
まるで使い古した廃油でも口にしたかのような不快な味が口内に広がる。
何とか嚥下したが、本来なら食べてはいけない異物を体内に取り込んだかのような気持ち悪さを感じた。

どうしてもそれ以上食べる気にはなれず、スプーンを置いて今度はパイを手に取る。
小さくちぎったものを口に運ぶと、まるで砂でも食べているように味気がない。咀嚼するのも程々に、今度も無理矢理飲み込んだ。

(何、これ…全然美味しくない。
どうして?どういうこと?)

まさかヴェケルがわざとそうしたのだろうか。
そんな疑問が脳裏を掠めたが、彼がそんなことをするわけがない。
今頃になってメイは自分が空腹であることに気付いたが、しかしこれ以上食事を摂る気にはなれそうにない。
身体が食べ物を拒否しているのを感じた。
食べ物を見ているだけで気持ち悪くなりそうで、顔を背けて席から立ち上がる。

 

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「小娘…」

そんなメイに、ブリニョルフが痛ましげな目を向けてくる。
見ればデルビンも同様で、ヴェケルだけがいつもと変わらぬ様子で自分の仕事をこなしている。
メイはそんな彼に対して、自分でも訳のわからない苛立ちを覚えて、「何?」とぶっきらぼうに答えた。

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「いや…大丈夫か?
まぁ、何だ…お前は戻って来たばかりだ。
まだもう少し休んでいたほうがいい」
「は?大丈夫かって何が?
別にあたし、何ともないけど?
今はおなかいっぱいなだけだし」

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「小娘」
ブリニョルフはメイの態度に気を悪くした風もなく、それどころかますます憐れむような面持ちになる。
メイは我慢出来なくなり、その場から立ち去るべく歩き出した。

自分でもどうしてなのかわからないが、今はブリニョルフとさえ顔を合わせていたくなかった。

 

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「ご馳走様。残しちゃってごめん、ヴェケル」
「どこに行く気だ、小娘?」
「ちょっと街まで。気晴らしに一仕事して来る」

振り返りもせずに早口で答えると、それ以上ブリニョルフが何か言う前に足早にその場から歩離れる。

 

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(大丈夫に決まってるじゃん。
だって、あたしは全部終わらせて無事に戻って来たんだもん)

 

 

 

 

 

 

正午にはまだやや早いこの時間、リフテンの中心にある市場は既に活気で満ち溢れていた。

 

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短い夏を終えて実りの秋を迎えた今の時期、ホンリッヒ湖やリフテン周辺の森では様々な恵みを得ることが出来る。
それらを販売する露天商に加えて、リフテンの特産物を目当てに街を訪れる行商人や冒険者が行き交う。

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そんな喧噪の中、見習いの商人のような身なりをしたメイは密かに獲物を物色する。

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彼女が目を付けたのはリフテンの外からやって来たらしいボズマーの商人だ。
正直、この際獲物は誰でも良かった。
それよりも、いつものように他人の懐から財布や貴重品を抜き取ることで、目を覚ました時からずっと感じている気持ちの悪い違和感を払拭したかった。
普段の勘を取り戻せばいつも通りの自分が戻ってくる、そんな気がしたのだ。

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抜け目のない商人の目で露店を物色するボズマーへと、さり気なく慎重に接近する。
盗賊ギルドの本拠地ということで、彼もまたスリを警戒しているらしくなかなか隙を見せなかったが、それでも何とか徐々に距離を縮めていった。

 

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彼は大きな背嚢を背負っているが、こんな「狙ってください」と言わんばかりの場所には金品を入れていない筈だ。
おそらく金や貴重品の類は懐かその近くに隠し持っているに違いない。
メイはこの背嚢に火を着け、商人が慌てふためいている隙に彼の懐から金品を失敬するつもりだった。

焦らず慌てず油断なくボズマーの様子を伺いながら、一瞬の隙を狙って炎の呪文を唱え始めた…その時。

 

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唐突にボズマーが振り返った。
相手の正体に気付き、メイは恐怖のあまりに凍り付いた。

ボズマーの商人だと思っていた彼はハロルドだった。

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思わず小さく悲鳴を上げるメイに、ハロルドは下卑た笑みを浮かべながら掴みかかる。
その瞬間、今の今まで無理矢理忘れようとしていた記憶が洪水のように押し寄せてきた。

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嬲られ犯され、陵辱された時の記憶も感覚も全てが鮮明に蘇る。

「大した能力もないくせに、懲りないっつーか本当にしつこいなぁ」

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「もうちょっと痛い目見せてやんなきゃ理解出来ないってか?」
「い、やだっ……!」

 

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「うわっ!?な、何だよ!?」

背後、それも近しい距離で女の声が聞こえ、ボズマーの商人は驚いて振り返った。
いつの間にか金髪の女がすぐ間近に立っていたことに気付き、ますます驚いた。
周囲への警戒は常に怠っていなかったにも関わらず、いつの間に?

(こいつ、まさか盗賊か?)
警戒心を最大限まで引き上げながら、油断なくその女を振り返る。

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しかし何やら様子がおかしい。
焦点の合わない目で、心ここに在らずといった表情を浮かべてぶつぶつと呟いている。

(何なんだ?まさかスクゥーマ中毒か?)
何にせよ、関わり合いにならずにこの場から立ち去るのが賢明だ。

「…おい?なぁ、あんた?だ、大丈夫か?」

そう頭で理解しながらつい声を掛けてしまうのは、彼の生来の気質故か。どうしても困っている女を見ると放っておけないタチなのだ。
例えその女が、自分の好みに掠りもしない貧弱な子供だとしても。

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「おーい?もしもーし?」

呼び掛けても何の反応もしない女の目の前で、軽く手を振ってみせる。
不意に女の目に生気が戻る。
と同時に、彼に怯えた顔を向けて後退りした。

「いや、だ…」
「え?何だって?」
「近付くな!このクズ!」
「は、はぁ?」

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悲鳴に近い声を張り上げて、女はその場から走り去った。
後に残された彼は何が何だか訳がわからず、目を白黒させるばかりだ。
彼としては、見ず知らずの女にいきなりクズ呼ばわりされるような言われはなどもちろんない。
あまりに理不尽すぎる事態に、呆然と立ち竦む。
しかし彼の受難はそれだけでは終わらなかった。

女が走り去る際、市場の露店に身体の一部をぶつけ、売り物と思しき防具が棚から落ちて硬質な音を立てた。
店主と思しき商人が、怒りを露わにして彼に詰め寄る。

「ちょっと、あんた!痴話喧嘩なら余所でやってくれる!?
商品に傷でも付いてたら買い取って貰うわよ!?」
「ええ!?俺のせい!?」

 

 

 

市場を離れ、裏通りへとやって来たメイは壁にもたれ掛かりながら肩で息をする。
まだ心臓が早鐘のように打っている。
あのボズマーから金品を失敬しようとした瞬間、今立っている世界の輪郭がぼやけて時間の間隔が歪み、「あの時」に引き戻されたように感じた。
呼吸が整い、頭が冷えてくるにつれて、先ほど自分が体験した出来事がただの錯覚だということを理解する。
あのボズマーはあくまであのボズマーであり、ハロルドであるわけがない。
「あの時」は既に終わり、自分は無事に逃げ切って安全な場所にいるのだ。
そう、全ては終わったことだ。

「……」
何度か深呼吸を繰り返した後、メイは壁から離れる。
先ほどは取り乱してしまったが、もう大丈夫だ。

(小娘、大丈夫か?)
「大丈夫に決まってるじゃん」
そう声に出して、再び獲物を物色に掛かる。

 

 

 

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夕暮れ時のリフテンを、メイは弱々しい足取りで歩いていた。

あの後、何人かの獲物に目を付けた。
しかし尽く失敗に終わり、何1つとして盗むことが出来なかった。
盗みを働こうとした瞬間、決まってあの幻覚に襲われた。
しかもそれだけではなく、もっと悪いことが起きている。

 

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「…っ」

メイは足を止めてその場に蹲った。
奪い合うようにして弄ばれ、慰み者にされた時の男たちの手の感触が実感を持って蘇る。
錯覚だと頭ではわかっていても、今も全身を撫で回すその感覚は消えてくれない。
身体の中心を穿った肉芽が、実体を伴っているかのように今もその存在を主張している。

「違う、こんなの、そうじゃない」
はっきり口に出して否定するが、しかし見えざる手が今も自分を犯している。

 

 

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(人は目に見える恐怖にはいずれ慣れても、目に見えない恐怖には決して慣れることはない)

アリンゴスは心底疲れた様子でそう言った。
あの時は漠然と理解したつもりだったが、今なら彼の言いたかったことが痛いほどに理解出来る。

アリンゴスが農園を売った証拠の品をギルドに持ち帰ることが出来た。
蜂の巣を燃やした際、天を焦がすほど高く立ち上った炎はリフテンの住人にギルドへの畏怖を植え付けた。
そう、メイは怪我らしい怪我をすることもなく任務を終えた。

しかし本当の意味ではまだ終わってはいなかったのだ。
メイはまだ終わらない悪夢の中にいる。

 

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