第29話 「剥くべき牙は忘れない」

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宵闇に支配されつつあるリフテンの裏通りを、メイは息を切らしながら疾走する。
どれぐらい距離を稼いだだろうか。
ここまで来ればもう大丈夫だ。きっと。
日も落ちたことだし、影が自分を隠してくれる。

 

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そう考えて、道の脇に置かれた樽の影に身を隠しながら小休止を取ることにした。

あの男達に捕らえられたことに気付いた時、己の迂闊さをとことん恨んだ。
しかしメイは辛抱強く機会を伺い、1人の男が覆い被さってきたその瞬間に素早くダガーを盗んで斬り付けてやった。
刃は彼が着けていたマフラーを切り裂き、柔らかな首筋に食い込む感触をメイに伝えた。
頸動脈を切断出来ただろうか。出来たかもしれない。
だとすれば、あの男はきっと助からない。

仄暗い満足感を覚え、自然と笑みが零れた。
同時に、あの男をどこで見かけたのか思い出す。確か彼は、ギルドの新人だった。
とは言え、別段仲間意識を覚えるほど親しくもなかったため、罪悪感はない。

(でも、ギルド員を殺っちゃったのはちょっとまずいかなぁ)

殺しは盗賊としてはあまり賢い方法ではなが、あの絶望的な状況で、彼が腰に装着していたダガーを気付かれることなく抜き取ることが出来た。
それは、自分がまだ盗賊であるという自負をメイに抱かせた。

(そーいえばあいつ、何か変なこと言ってなかったっけ?
ギルドマスターが何とかかんとかって…)

目を覚ましてからも、まだ気を失っている振りをして男達の会話に耳を傾けて反撃の機会を伺っていた。
その時、ギルド員の男が何か言っていた気がする。
自分とメルセルに関わることで、そしてメイ自身も無関心ではいられない内容だった気がするがどうしても思い出せない。

 

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その時、少し離れた場所で松明の炎が揺れているのに気付いて思考を中断した。
松明を持った衛兵が巡回している。
メイは樽の影に身を潜めたまま、気配を殺して衛兵が通り過ぎるのを待つ。

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そのまま衛兵はメイを素通りする…かに思えたが、メイの前から数歩離れたところで立ち止まった。
顔を上げ、何かを探るように周囲に視線を走らせる。

「血の臭い…?まさか…いったいどこから…」
呟きながら、その臭いがどこから漂うのか探っている。
これでは見つかるのは時間の問題だと判断したメイは、衛兵の視線が別の方向を向いている瞬間を狙ってその場から離れる。

男を切り付けた時、まともに返り血を浴びていたのだ。
気配は隠せてもこの臭いまでは隠せない。
返り血が付着した服のままで街をうろつくのは危険だ。

 

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舌打ちしたい衝動に駆られながら、身を隠せる場所、あるいは匿ってくれそうな相手を思い浮かべる。

フラゴンにはまだ帰りたくない。
迂闊にもまた危機に陥ったことや、その結果としてギルド員を殺害した後となれば尚のことだ。
カルジョのことが真っ先に浮かんだが、彼が所属するキャラバンは先日リフテンを出発したと聞いたばかりだ。
次にスヴァナを思い浮かべたが、そもそも先ほどの男達はヘルガの手先だ。あの宿舎に駆け込むのは得策とは言えない。
他に知り合いと言えばインガンがいるが、彼女が働いている店の持ち主である夫婦はリフテン住人のご多分に漏れずメイを快く思っていない。こんな返り血を浴びたばかりの姿で現れれば、すぐに通報されてしまうだろう。
かと言ってギルドの構成員がブラックブライア家に駆け込むなど言語道断である。

結局、メイにとって安全な場所はフラゴンしかない。
しかし、先ほどブリニョルフに言われたことがまだ心の中で燻っている。どうしても今はまだ彼と顔を合わせたくない。

 

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混乱する思考の端に、ある場所に纏わる記憶が浮上した。
あまり出入りすべき場所ではないが、こうなったら仕方がない。

 

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濃い影が蟠る場所を選びながらメイはリフトウィールド邸までやって来た。

メルセルの持ち家で、そうとは知らなかった頃に一度だけ忍び込んだことがある。
一瞬、ロックピックがないと焦ったが、ブリニョルフから受け取った1本があることを思い出して心底安堵した。

 

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屋敷の外観に相応しく上等な鍵が掛かっているが、今度も上手く開錠出来るだろうか。
不安を抑え込みつつロックピックを差し込み、錠前と格闘すること数分、小気味いい音が響いた。

 

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屋敷の中に滑り込んだメイは後ろ手で鍵を掛け、そのまま扉に背を預ける形でへたり込んだ。
やっと安全な場所に避難出来たと思うと全身の力が抜けた。

同時に震えが止まらなくなる。
何とか逃げ切ったが、またしてもあのまま凌辱されるところだった。
メルセルに救われた命だと再認識したばかりだが、次にあんなことがあればもう耐えられる気がしない。今度こそ自ら投げ捨ててしまうだろう。

 

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否応なしに先日の記憶が鮮明に蘇り、それと同時に、肌を這い回る手の感触がまだ残っているような錯覚を起こし、心を蝕む。
こればかりは、どんな安全な場所に逃げ込んでも完全には逃げ切れない。
あの男たちに穢され奪い尽くされた事実も、惨めな記憶も、自分が汚物の塊になった感覚も、どこまでもメイを追いかけてくる。それこそ影のように。

 

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メイはよろよろと立ち上がった。

何はともあれ、あの男の血の付いた服を何とかしたい。
身体を洗いたい。

 

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この広い屋敷の中で、浴室はすぐに見つかった。
厨房から何やらいい香りが漂ってきて食欲を刺激したが、今は入浴のほうが先だ。

 

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無造作に服を脱ぎ去り、全身を湯に沈める。息苦しくなって半身を水面から出した後は、浴槽の縁に凭れ掛かる。
温かくて心地良い。
湯が心身を解し、何もかもを流し去ってくれるような気がした。

 

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もちろん、あくまで「気がする」だけで根本的な解決には至らないものの、少しは人心地が着いた。

あの一件以来、フラゴンでさえもメイにとって心身が休まる場所ではなくなっていたが、こうして安全な場所で1人になった今、久々に安堵感を覚える。
ギルドの仲間のことは好きだが、今は誰にも会いたくない。

(でも、いったいいつまで?あたし、これからどうしたらいいの?)

そんな疑問が脳裏を掠めた。
弱気になると同時におなかがぐぅと鳴り、今日は朝から林檎を一切れ齧ったきりだということを思い出した。
そうなると厨房から漂ってきたあの香りが気になる。
頭から爪先まで綺麗に洗った後、湯から上がったメイはその辺にあったタオルで身体を拭いた。
着替えがないことに気付き、取り敢えずは手近にあった服を拝借することにした。

 

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美味しそうな匂いに釣られて食堂へ入ると、大きな鍋が目に付いた。
鍋の中は薄紅色のスープで満ち、タマネギや白かさキノコといった野菜と一緒に魚介類を一緒に煮込んでいる。

 

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(ちょっとぐらいいよね?)
そんなことを考えたのは、食器棚から取り出した器に鍋の中身を盛り、食卓に着いてから。つまり既に食する気満々だ。

 

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「!何これ!おいし~!」

一口食べた瞬間、思わずそう口にしていた。
薄紅色をしているのはきっとトマトだろう。
魚介類と野菜を煮込んだトマトスープといった風だが、ニンニクとタマネギ、それに何かの香辛料が程よく利いている。
あっという間に器は空っぽになったが、まだ食欲は満たされていない。

 

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「あっ、パンもある!」

ゴールデングロウ農園から帰還してからというもの、食欲など全く沸かないままに日々を過ごしていた。
曲がりなりにも自分はまだ盗賊なのだという確信を持てたこと、それにギルドの仲間から離れて1人になれたことにより、急に食欲が沸いてきた。
何よりもこのスープはメイが今までに食べたどんなものよりも美味しい。

 

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メイは迷わず再びスープをおかわりし、更には食卓の上に置かれた籠からパンとチーズを勝手に取り出してそれらも一緒に食べ始める。
長期保存を目的としたパンは固いが、このスープによく合う。

 

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「わぁ!何だろ、このパン?いつも食べてるパンよりずっと美味しい!」

ジュニパーベリーだろうか、小麦の味と共に爽やかな風味がした。
そこそこ大きな塊だったパンとチーズは見る見るうちにメイの胃袋の中へと消え、鍋の中身さえも気付けば空っぽだ。

 

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食欲は満たされたが、今度は喉が渇いてきた。
まだ未開封のワインボトルを見つけたメイは、これまた勝手に開封して中身をジョッキに注ぐ。
酒の良し悪しは全くわからないが、アルコールの類が苦手なメイでもこれなら抵抗なく飲める。安酒ではなさそうだ。

 

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「う…」

唐突に視界が揺れた。
ここ数日張り詰めていた緊張が久々に解れ、しかも食欲が満たされたところに慣れないアルコールを摂取した。
連日の疲労もあって、全身が弛緩するような感覚を覚える。
覚束ない足取りで食堂から出て、横になれそうな場所を探す。

暖炉の近くにテーブルと長椅子を見つけ、メイはその長椅子に横たわった。暖炉にくべた薪の爆ぜる音が眠気を誘う。

 

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その時、先ほどの温かいスープや暖炉の炎はいったい誰が用意したのか?という疑問が浮かんだ。
…やっとその点に思い至った。

メイ以外の誰かがこの家に出入りしてからそう時間は経過していない筈だ。そして今は何らかの事情で離れていても、すぐに戻って来るのではないか。
そして、その「誰か」というのは1人しかいない。

 

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自分は途轍もなくまずいことをしでかした気がする…が、それよりも今は瞼が重くてどうしようもない。
メイの意識はすぐに眠りの淵へと落ちていった。

 

 

 

 

 

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「ん…」

暖炉で火の粉が爆ぜる音が聞こえた。
ゆっくりと意識が浮上する。

 

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「あれ?ここは…」

見慣れない部屋の風景に戸惑うが、ややあって今の状況を思い出す。
同時に、自分が何をしでかしたかということも。

 

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「やっと起きたか」

不機嫌そうな低い声が聞こえて、メイは竦み上がってしまう。
顔を上げる間でもなく声の主が誰かは容易に想像が付く。

 

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「さぞやよく眠れたことだろうな?」
「あの、ますたー、あたし、その…えっと、作り直します」
「その必要はない」
「えっ!?あ、はい」
頭が真っ白になり、言葉がまともに出てこない。
何にせよ自分がしたことの責任は取らなければいけない、そう思って口にした申し出はあっさり棄却される。

 

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「あのっ、あたし…」

 

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「それ以上喋るな。不愉快だ」
「う…」
謝罪を述べようとしたが、それを見越したかのようにメルセルはきっぱり言い放った。

 

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長椅子の上でますます縮こまりながら恐る恐るメルセルを見上げると、未だ嘗てないほどに不機嫌そうな表情をメイに向けている。

当然である。
ギルドマスターの家に勝手に上がり込んで、これまた勝手に湯を使い、更には鍋の中身を空っぽにして、挙句の果てには暖炉の前で熟睡していた。
これで怒るなというほうが無理な相談だ。
しかも当人は、メイの謝罪も贖罪も受け入れる気はないらしい。

何気なく壁に視線を向けた時、窓の外がすっかり真っ暗になっていることに気付いた。ここを訪れた時はまだ宵の口だった筈だ。
そういえば身体に溜まっていた疲れ酔いも抜けていて、長く眠っていたことを示している。

(まさか…寝かせたままにしてたんです?)
そんな疑問を胸中で呟く。
思い切って尋ねてみようか、そんなことを考えたその時、メイより先にメルセルが口を開いた。

 

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「それで、お前はいったい何が出来る?」
「えっ?」
「それとも、下っ端の分際でギルドマスターの家に上がり込んで無銭飲食するしか能がないのか?」

 

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(謝んなくていいから働けってことかな…?)

「な、何でもします、あたし。ますたーのご命令通りに」
「ほう?なら、今後もお前に盗賊稼業が務まるのか?」

 

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痛いところを突かれ、メイの肩が小さく震えた。
メルセルは構わず続ける。

 

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「ゴールデングロウ農園では、確かにそれなりの働きを見せた。尤も、及第点とは言えないが…理由はお前が一番よくわかっているな?
しかし、その一件以降はすっかり精彩を欠いていると聞いたぞ」
「ッ…ええ、あなたが来なかったら今頃ここにいませんでしたもんね。
って、いったい誰から聞いたんです?」
「誰からか、はこの際関係ない。今度もお前が使い物になるのかどうか、俺が知りたいのはその一点だ」

 

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容赦なく斬り込んでくるメルセルの言葉に、メイは思わず唇を噛む。

あの一件以来、メイの周囲には余所余所しい空気が覆っている。
敢えて誰もそのことに触れないが、気遣わし気な態度というのはどうしても感じ取れてしまう。
そして先刻のブリニョルフの言葉。

 

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おそらくは彼がメルセルにメイの状況を伝えたのだろう。
しかしメルセルは、ブリニョルフを初めとした他のギルド員とは違う。
理由はどうあれ使えない者は切り捨てる、ただそれだけだ。
いや、メルセルだけではない。

ブリニョルフですら、婉曲な言い回しではあったがメイを体良く厄介払いしたがっているのは明らかだ。少なくともメイにはそう見えた。

 

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「言っておくが、ギルドには役立たずを飼っておくような余裕はない。
今のところはブリニョルフの恩情で食うには困っていないようだが、今後もこの状況が続くようなら、」

 

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「続きません!」
叩き付けるようにメルセルの言葉を遮る。

 

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その声に驚いて口を噤んだわけではないが、メルセルは無言でメイを見遣る。どの程度の価値があるのか品定めするような目だ。
羞恥と屈辱、それに怒りに頬を紅潮させながらその目を見返す。

抑圧していた感情が一気に噴出し、自分の中で暴れ回っているのを感じる。
怒りのあまり脳みそが焼き切れそうになり、それに反比例してなかなか言葉が出てこない。
しかしメルセルは急かすでもなく、ただメイの様子を眺めている。

 

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「…ッ、ヴェックスは失敗した。でも、あたしはちゃんと例の書類を持って帰ったし、それに蜂の巣だって燃やして街の連中をチビらせてやりましたもん。
あたし、ヴェックスと違ってちゃんと成功しました。

た、確かに、その途中で色々あったけど…だから何だって言うんです?
ちょっと、その…そう、怪我してちょっとだけお休みしてただけですけど?
でも!ヴェックスみたいにもっともっと長く休まなきゃいけないほどの怪我でもないし!
それでもう使い物になんないとか、はぁ!?って感じですよ!」

 

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「むしろ、ヴェックスのほうこそ焼きが回ってきたんじゃないです?
確かヴェックスは、ますたーが連れて来たんですよね…?
でもって、一緒におっきな博物館とか豪邸とかに侵入してすんごいお宝盗んだりしたんですよね?今まで、何度も。何回も。

でも、ヴェックスが失敗してあたしが成功したんですよ?
この意味わかります?
つまり、あたしは使える奴ってことですよ。
大事な任務に失敗したヴェックスより、肝心な時にいないナギなんかよりも、ずっとずっと!!
そんなこともわかんないなんて、ますたーも案外…その、えーっと…ば、バカなんじゃないです!?」
思い付くままに言葉を吐き出す。

言いながらメイ自身も支離滅裂なことを言っているとわかっていたが、それでもまだまだ止まらない。
メルセルに口を挟む隙を与えず更に続ける。

 

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「ゴールデングロウ農園のアレだって、ホントは、その…ほら!あたしの作戦だったんです。
えっと、はにーとらっぷ?ってヤツですよ。
あいつら、あたしが綺麗でかわいくておっぱいおっきくてスタイル抜群で魅惑の肢体の持ち主で色気たっぷりの誰もが振り向く絶世の美女だから、すっごくすっごく高く売れるから、それこそスカイリムの全土より高い値段が付くから、売り飛ばすために殺さなかったんです!
あたし、最初からそうなるってわかってわざとそこに付け込んでやったんです!
いくらますたーでも、こんなことは出来ないですよね?
っていうか、ますたーだったらそんな小細工する必要ないと思いますけど…
とにかく、あたしが最強なんです。…ますたーの次ぐらいに」

 

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「そ、そう!そーですよ!
何かもう、ヴェックスなんか目じゃないってことが今回の件ではっきりしましたよね!?
あ、そーいえば知ってますか?
グレイフォックスが星霜の書を盗み出したって有名な話ですけど、あれって実はグレイフォックス自ら優秀な部下に依頼したって説もあります。
そんな感じで、今にますたーのほうからあたしにお願いしますって頭を下げなきゃいけなくなるんですから!
ヴェックスよりナギよりブリニョルフよりデルビンよりシンリックより…他の誰よりもずっとずっと、あたし、使える奴です!
すぐにそうなりますって!
っていうかもうなってます!
大事な任務を失敗したヴェックスなんかもういらない!
彼女はあなたに相応しくない!
あたしこそが一番で、あなたの隣に相応しいのもあたしだけです!」

息継ぎする間も惜しんでそこまで言い終え、暫くは空気を貪りながら肩を上下させる。
ギルドマスターに対して随分と舐めた口の聞き方で、しかも言っている内容も滅茶苦茶だが、紛れもないメイの本心だった。

様々な感情が一筋の涙となって頬を伝った。
止め処なく溢れそうになる「それ」を、メイは瞬きを繰り返すことで押し留めた。

 

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メイがまだ生家にいた頃、生まれてからずっと抑圧されていた。
自分が全くの役立たずな存在で、何1つ出来ることなどない。そういう自己認識しか持てず、静かな絶望の中で生きていた。

そんなメイの意識に変革をもたらしたのは、他でもない、窃盗である。
当時のメイにとって唯一の楽しみは読書で、書物を通して様々な盗賊の生き様を知った。
もちろんその時は自分が盗賊になるなど夢にも考えなかったが、書物を通して知った歴代の盗賊の生き様が、ある日屋敷の中でスイートロールを盗み出すきっかけになったのは確かである。

 

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「影を盗む」に登場する少女盗賊になったつもりで、美味しそうな匂いがするあの焼き菓子を盗み、初めて口にした時の感動は今も忘れない。
メイがスイートロールを盗んで食べたことなど、母親も使用人達も誰1人気付かなかった。

あの時は本当に爽快だった。
スイートロールを盗んで食べたことなど些末なことだが、窃盗という行為よって圧倒的な支配者を出し抜くことが出来た経験は、メイにとって大きな意味を持つ出来事だった。
母親はメイが甘いものを食べることを決して許しはしなかったのだ。

その後、小さな暗殺者が母親を初めとした屋敷の者を皆殺しにした。
ただ1人、その暗殺者に依頼した者さえ存在を知らなかったメイを除いては。
幼い少女にしか見えない暗殺者は、メイに「安息の死か苦難に満ちた生か、好きなほうを選ばせてあげるわ」と言った。
死への恐怖も生への執着もメイにはまだよくわからなかったが、それでも虐げられたままで終わるのだけは嫌だという痛烈な思いがあった。
「何の身寄りもない女の子が1人で生きるって大変よ?」
訳知り顔で暗殺者はそう言って、そしてそれは事実であり正論なのだとメイでも理解出来たが、それでも生きることを選んだ。

 

世界へと解き放たれたあの日、メイが強く思ったのは「弱者でいたくない」ということ。
ならばどうすればいいかまでわからなかったが、とにかく強くなりたいと感じた。
このリフテンに流れ着き、ブリニョルフに見出されてギルドの構成員となり、そこでメルセルに会った。

「あたし、盗賊になるんです」

彼に対して放った言葉は、そのまま自分自身への決意表明でもある。

「強くなりたい」
「弱者のままでいたくない」
「虐げられたままでは決して終わらない」

その思いを支えてきた手段こそ窃盗であり、盗賊という生き方そのものなのだ。

 

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自分は決して餌食ではない。
たとえ犯され嬲られ奪われても、それはあくまで更に大きな獲物を狙うための通過点に過ぎない。

何故なら自分はいつでも奪う側なのだから。
どんなに蹂躙されても、剥くべき牙は忘れない。
そしてそれは、盗賊の守護神だというノクターナルに対しても同じことだ。
デルビンの言うように、盗賊ギルドが幸運を司る女神の恩寵とやらを失ったことで破滅に向かっているのだとしても、自分は決してノクターナルに飼い慣らされはしない。

 

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「そうか」

メルセルは一言だけ口にした。
あまりに簡潔すぎてメイのほうが面喰ってしまう。

 

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「ならば早速お前に依頼したいことがある」
「は、い……えっ!?」

メイは一瞬聞き間違いかと思った。

 

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「これは俺個人からの依頼で、受ける受けないはお前次第だ」
「えっ、うそ!?…や、嘘なわけないですよね。あのっ、受けます受けます!
あたし、絶対に受けます」

 

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「お前はいちいち反応が大仰で鬱陶しい奴だな。
まぁいい。ここで待っていろ」

そう言ってメルセルは部屋から出て行った。

 

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いずれメルセル自ら仕事を依頼したくなるような盗賊になる、そう豪語したばかりだが、まさかいきなり実現するとは思わなかった。
まだ不安がないと言えば嘘になる…が、しかし盗賊という生き方が出来ないのならメイにとっては死んだも同然だ。
ならば受けないという選択肢はありえない。

 

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ややあってメルセルが戻って来た。その手には、メイにも見覚えのある石が乗っている。

「あっ、その石…!」
「知っているのか?」
「はい、前にバトルボーン家の依頼でホワイトランの首長の部屋に入った時…」

 

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唐突に言い淀むメイ。
重大な任務に当たっている最中に、こっそり盗みましたとは言い難い。腕のいい盗賊は重要な任務に取り掛かる時は目当てのもの以外には手を付けないものだ。

「任務中に懐に収めてきた、というわけか」
「…はい」

 

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「お前はこの石がどういうものか知っていて盗んだのか?」
「いえ、知りません。デルビンにでも聞こうと思ってたんですけど、色々あって聞きそびれてます」
「は、知りもせずに「綺麗だから」程度の理由で盗んだといったところか?
今更言う間でもないが、現場を荒らすことは後々の失敗に繋がる」
「き、肝に銘じます」

 

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「この石だが、これはバレンジアの石と呼ばれるものだ」
「バレンジアの石…あのバレンジア女王と何か関係あるんです?」
「ああ。元々はあのダンマーの女王が被っていた王冠に嵌められていた宝石で、合計24あると言う。
宝石そのものは大した価値ではないが、24全て集めてバレンジアの王冠を復元させれば相当な価値になるだろう」
「24…」
「そしてその内の1つを盗み出すというのが、お前への依頼だ」

 

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メイは頷き、彼の言葉の意味について考える。

ギルドマスターとしてではなく、一個人としての依頼だとメルセルは言った。
ギルドを介入しないのはどういうことだろう。
王冠の復元を自分1人の手柄にしたいから…という理由ではないとメイは感じた。
メイの疑問を見透かしたようにメルセルが説明を加える。

 

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「リフテンの東に、ブラックブライア家が所持する山荘があるのは知っているな?
石の1つが、そこにあるという情報を入手した。
それで、お前が潜入して持ち帰るというのが任務の内容だ」
「ああ…なるほど」

それを聞いて合点がいった。
単体ではさほど価値がない石とは言え、ブラックブライア家の財産にギルドマスター自ら手を出すわけにはいかない。
メルセルのことだから気付かれることなく盗み出すぐらい容易だろうが、おそらくそういう問題ではないのだろう。

 

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(あれっ?でも…)

メイの脳裏をある疑問が掠めた。
この石は単体ではさほどの価値がないとメルセルは言った。
ならば、メイビン・ブラックブライアと交渉して買い取ることも可能なのではないか。
メイビンは合理的な考えの持ち主だから、重要な協力者であるメルセルに極端な値段を吹っ掛けるとは思えない。
しかしメイ程度が思い付くことをメルセルが一考もしないも思えないから、おそらく彼なりの考えがあるのだろうと納得した。

 

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「あたし、その任務受けます」

 

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「よし。ならば件の山荘に関する情報を渡しておく」
「ありがとうございます」

そう言ってメルセルは、石と一緒に持って来た紙の束をメイに手渡した。
ざっと目を通しただけでも、山荘の間取りの他に警備している傭兵の人数や配置、その他予想される留意点などがかなり詳細に書かれている。

メイはまだゴールデングロウ農園の件から完全には立ち直っておらず、正直なところ不安が残る。
しかし、ここまでお膳立てして貰って失敗するようでは、今度こそ本当に盗賊として終わりだ。
この任務に失敗すれば当然ながらこれはメイの独断と処理され、メルセルは「ギルドの協力者の財産に手を出そうとした不届き者」を処刑する形でメイビンに対して責任を取るに違いない。
それでも、メイは死ぬとしても最期の時まで盗賊で在りたいと思う。

 

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「助言しておく。俺をがっかりさせるなよ」
「はい」

短く言って頷く。
それを見届けると、メルセルは背を向けて部屋から出て行く。
首を傾げるメイに「そのまま大人しく待っていろ。決して喋るな動くな息するな」と告げて、厨房のほうへと向かった。

 

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待っている間、メイは律儀にも息を止めたまま渡された資料の内容を読んで頭に叩きこむ。
しかし長く続く筈もなく、すぐに根を上げてしまう。それと同時に、「動くな」という指示は最初から守れていなかったことに気付いてしまった。

 

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その時、何とも言い難い芳醇な香りがして、顔を上げると小さな器を載せた盆を持ったメルセルが戻って来たところだった。

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その器の中身が香りの正体のようだ。

 

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何が入っているのだろうかとメイが眺めていたら、メルセルがその器をテーブルの上に置いた。
器には、暗褐色をした飲み物が満ちている。

 

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「俺が言ったことを守らなかったのか」
「う…も、申し訳ありません、です」
「まぁいい。これを飲んだらさっさと帰れ」
「え?」

 

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つまりはメイのためにわざわざ用意してくれたということか。

予想外のことに困惑するが、彼を苛立たせる前に長椅子に腰を下ろし「頂きます」と言って受け取った。
その暗褐色の飲み物からは湯気と共に甘く芳ばしい香りが立ち上る。
酒の類ではなく、かと言って茶でもない。
メイにとって未知の飲み物だ。
恐る恐る一口飲んで、思わず目を大きく開いた。

 

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「美味しい!?」

反射的に叫んでしまう。
メルセルが「いちいちうるさい奴だ」と皮肉を口にするが、感動のあまりそれにも全く臆すことなく尋ねた。

「すっごくすっごく美味しいですね!何です、これ?あたし、こんなの初めてです」
「カカオと呼ばれる、ヴァレンウッド地方原産の木の実を挽いたものだ」
「へぇ…何か、ほろ苦いけど甘いです」
「蜂蜜も少々入っているからな」
「へぇ…すごくあったまりますねー」
「生姜やその他の香辛料を含んでいるから、その効能だろうな」

メイは時間をかけて器の中身を飲み下していく。
この稀有な飲み物をゆっくり味わいたいからというのも理由だが、ここにもう少し留まっていたいからというのもある。
しかしさほど大きくもない器はすぐに空っぽになってしまう。

 

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飲み終える頃には、名残惜しさを感じながらもすっかり気分が良くなっていた。
たった一杯で身体の芯から温まり、心身の疲れや緊張が解れたような気がする。
気持ちが高揚し、自然と笑みが零れる。

「ふあぁ、すっごく美味しかったです。おかわり…とか、ダメですかね?やっぱり」
「一杯で止めておけ。それ以上はおそらくお前には刺激が強すぎる」
「ふえ?しげき?」

 

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へらへらと締まりのない笑顔を浮かべながら首を傾げる。
と、その時、視界が揺れた。

意識ははっきりしているが、上せた時のように頭がくらくらしてきた。それに、温まるどころか顔が妙に火照る。
その時、唐突に先ほど自分を攫った男が言ったことを思い出した。

(この女、ギルドマスターに恋してるらしいですよ?)

あの時は彼の言葉の内容を反芻する余裕などなかったが、今になって意識してしまう。

 

 

(あいつ、いったい何が言いたかったの?)

「あ、あれ…?」
身体から力が抜けて、気付けば長椅子の上に崩れていた。

「何をしている。飲んだら帰れと言っただろう?」
「う…ますたー。何か、立てないんですけど…」

自分自身に起きている急激な変化に、さすがに戸惑いを覚える。
同時に、メルセルの顔をまともに見ることが出来ない。
「毒」という言葉が浮かんだが、すぐにそれもどうでも良くなる。

(あー、帰りたくないなぁ)

正直なところ、メイはもう暫く…出来れば一晩ここに留まっていたいと思った。
せっかく身も心も温まったのだから寒い屋外に出たくないというのもあるが、今日に限ってはメルセルから離れがたく感じた。
いつもは彼の周囲をうろうろしつつも、どうしても近寄り難さを感じてあまり長時間近くに留まれないのに。

 

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「ひゃう!?」

うんざりしつつ、メルセルが渋々といった様子でメイを肩に担ぎ上げた。
心臓が早鐘のように打ち、顔だけではなく全身が火照る。
荷物のように運ばれながら、メイはそういえば最近もこんなことがあったと思い出す。きっとこのまま屋外に放り出されるに違いない。

 

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もう少しマシな運び方をして欲しいと思ったが、同時に彼の顔が見えないことに安堵した。
扉が開く音が聞こえて、冷たい風が吹き付けてくることを覚悟したが、しかしメイの予想に反して暖かな空気を感じた。

 

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(あれ?こっち、出口じゃない?)

僅かに顔を上げて周囲の様子を伺うと、先ほど開いた扉は屋外ではなく別の部屋への入り口だった。

 

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中は広々とした居心地の良さそうな部屋で、この部屋の暖炉にも赤々とした炎が躍って室内を温めている。
高級感のある寝台が置いてあることからして、どうやら寝室のようだ。

 

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(え?あ、あれ?ここって…え?え?)
メイの困惑など他所に、寝台の上へと投げ出された。

 

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メイが普段寝起きしている簡素な寝台とは明らかに異なる、上質な布がメイの身体を受け止め。その柔らかな感触を伝える。

 

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気付けば、自分を見下ろすメルセルを見返していた。

(え、これってどーいう状況…)

 

 

 

 

 

 

 

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2 thoughts on “第29話 「剥くべき牙は忘れない」

  1. 明けましておめでとうございます。

    自分の話の方の次話の目処をなんとかつけようとしていたら、コメント遅くなっちゃいました。
    これって絶対、メリセルが上書きしてくれるフラグだよな(゚∀゚)と思って読んでました。シーンの再現やら表現やら難しいところですけど、次がどうなるのかワクワクしてます^^

    こちらは年明けて仕事も始まって最初の休み、ようやく一息着いたところです。
    りささんもお体に気をつけてお過ごし下さいヾ(๑╹◡╹)ノ”

  2. >もきゅ様

    もきゅさん明けましておめでとうございます。
    物語を纏めるのって時間も根気も色々要りますよねー…
    ベタですが「上書き」展開です、ハイ。
    なかなか思い通りの場面を表現出来ず、毎回あたふたしながら何とか更新に漕ぎ着ける感じですね。

    年明けから1週間経ち、ようやく日常が戻ってきましたかね。
    こちらはまだ暫くばたばたしそうですがw
    コメントありがとうございました。

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